肥後宗像家文書
世界遺産・宗像大社(福岡県宗像市)の大宮司宗像家の子孫とされる多良木町の旧家に残された「肥後宗像家文書」を紹介します。肥後宗像家の文書は142点の中・近世の資料群。多良木町の調査で豊臣秀吉発給の文書2通が見つかり、宗像定氏を最後に途絶えたとされる大宮司宗像家の血筋が熊本で存在していたことが明らかになりました。秀吉文書はいずれも「宗像才鶴」という人物に宛てられたもので、1通は九州平定に乗り出した秀吉が天正14(1586)年10月、島津家の九州北上を才鶴が阻止したことを称賛した文書で、秀吉の花押もあります。もう1通の朱印状は、秀吉の軍法などについて浅野長政から指南を仰ぐように指示しています。才鶴が亡くなった氏貞の後継者であることも文書から明らかになりました。
久米熊野座神社
伝記によると、1544年に、人吉藩第17代当主相良晴広公が、本殿を修造したことが分かっています。さらに翌年には、拝殿を修造しています。古くに、久米は久米氏が地頭として治めた地でした。この当時の修造には、久米氏の子孫である藤原氏がかかわっています。1628年と1691年には、藤原氏が拝殿を造営し直し、近年では1937年(昭和12年)に拝殿を改築しています。令和2年(2020)7月の熊本豪雨で拝殿が被災しましたが修復されました。縁結びと厄除けにご利益があると言われている神社です。
参道の延長線上に、黒肥地にある青蓮寺があります。
秋季大祭で奉納された、龍光館による演武、タイ式捨流剣術(創始者は丸目蔵人)
今年は7月24日に行われた、茅の輪くぐり
さざれ石(球磨村一勝地産出)
久米城
久米熊野座神社から久米の古道を登って行くと、久米城跡になります。中世の山城ですが、築城年代はよくわかっていません。久米氏の居城でした。1559年、同族間の内乱、獺野原(うそんばる)の戦いで落城するまでは、現役のお城でした。南側の頼治神社上方の尾根とその南方の尾根には、更に古い時代の城跡も残っています。現在では久米城址公園として整備されています。
久米城址公園から見る夜景
【写真提供】豊永美和子さん
城泉寺(明導寺)阿弥陀堂の東側(入口右)に立つ両塔は、寛喜2年(1230)に建立されました。軸部と笠石とは別材で構成する間層式層塔で、各層の四面には、蓮花座上に座る二重光背形の龕部(がんぶ・仏像を納める厨子)に、定印の阿弥陀仏を彫りだしています。軒裏には、隅木や垂木形をつくりだしている。
【写真】右側 九重石塔 高さ 4.28m(凝炭岩)
【写真】左側 七重石塔 高さ 3.86m(凝炭岩)
※大正2年に八代に移築された十三重塔(国指定重要文化財)もあった。
あさぎり町深田の立岩の史跡に、井上微笑の句碑があります。
「大根船 続く炭舟 下り舟」
明治四十年の冬に、微笑が深田橋で読んだ句です。
湯前町の明導寺の境内にある句碑
「明導寺 門内の菊 咲くが見ゆ」
応永23年(1416)相良頼久の建立と伝えられ、三間一戸の楼門、屋根は寄棟造り、茅葺きです。明治末期の修理の際に組物の斗栱(ときょう)を取り除いたので総体がやや低められています。全体の老朽が著しいため、平成2年~3年に解体修復工事が行われ現在に至っています。楼門は青井阿蘇神社より200年ほど古く、熊本県最古の唐様(中国風)の楼門として貴重な遺構です。1962年(昭和37年)熊本県指定の重要文化財となり、王宮神社は2015年(平成27年)に、日本遺産人吉球磨の構成文化財22番となっています。
王宮神社本殿
楼門左に立つ仁王像
楼門右に立つ仁王像
源嶋神社
源嶋神社は、王宮神社本殿左隣にある神社ですが、元々王宮神社が源嶋(現在の
多良木中学校附近)にあったときには源嶋神社とも呼ばれていたそうです。
幸野溝旧堰普請記念碑(湯前町指定文化財)
江戸時代の初め、全国的な新田開発のため、用水路工事が盛んに行われ、球磨郡では百太郎溝工事が進んでいました。そして湯前村と久米村周辺の荒地を開田する目的で計画されたのが幸野溝です。22代藩主、相良頼喬公の命により高橋政重が中心となって、元禄九年(1696)に開削が始まりました。水路を掘る工事は1・2年でほぼ完成しましたが、堰の工事は難航し、大洪水で2度も流されてしまいました。工事費用も無くなり、政重は11面観音像を背負い村々を歩いて、資金集めを始めました。工事は再開し宝永二年(1705)に完成しました。工事開始から10年目のことでした。堰があった土地の名前をとって「幸野溝」と名付けられました。
旧貫入口
相良新四国八十八ヶ所霊場第25番札所。
覚井公民館分館の場所が元大師堂跡であり、仏像は公民館分館に祀られていましたが、昭和56年12月に、公民館から慈眼院の阿弥陀堂に移されています。
阿弥陀堂
総高246㎝、安山岩の基壇・笠石・蓮台・角柱・笠・宝珠の六重構造になっており、「キャ、カ、ラ、バ、ア」の梵字が刻み込んであります。笠石の右側面に「奉造立庚申供養所」と彫られていて、左側面に〇〇〇二年庚虎、裏側には欠損〇〇祥月施主敬白彫られています。江戸時代のものと思われます。
厨子
薬師堂内の須弥壇の上に正面82㎝、側面57㎝、軒までの高さ118㎝、切妻造の古建築を模した厨子が置かれ、中に薬師如来立像(室町時代)を中心に日光・月光菩薩(室町時代)が安置されています。本尊の薬師如来立像は、茅の一木造で、総高68.5㎝、像高54.0㎝、台座高14.5㎝、両脇侍は一木造で、像高はともに33.0㎝です。旧暦6月8日に薬師講を行っていたところから「八日」と言う集落名になったと言われています。この薬師堂は寛正七年(1446年)火災により再建されたもので、その以前から薬師堂はあったものと思われます。
鰐口は室町時代の物で、径18.4㎝、厚み6.5㎝の鋳銅製の物です。
木造薬師如来立像及び脇侍
鰐口
新相良八十八ヶ所23番札所
水上村岩野の龍泉寺の「奥の院」で、白水神社から約1キロ登った所。県道沿いに道標が建っていて、そこから50m登った所に巨岩の下中央に不動明王を祀り、両脇に各2体のお地蔵さんが祀られています。江代小学校にあった不動尊を、昭和6年頃に現在の場所に移されたと言われています。子供の疳の虫の神様と言われています。
※右写真(県道沿いにある道標)